オランダ漫遊 ーさまよえる日本人ー
- 横山孝平
- 8月13日
- 読了時間: 9分

人生のなかで、あと何回こんな瞬間を味わうことができるだろうかと思うほどに、感慨深い時間だった。
雨に濡れた路面は街の灯りをやさしく包み込んでいた。ただトラムの軌道だけが一筋の光となって浮かび上がり、それは天までのびるように輝いていた。
ブルートゥースで繋いだイヤフォンに、ワーグナーの″さまよえるオランダ人〟が流れてくる。
「私はワーグナーが嫌いだ。だが、ワーグナーにひざまづきながら、彼を憎んでいる」
とは、レナード・バーンスタイン(ユダヤ系アメリカ人)の言葉だ。
一方的な理解による無防備な賞賛は、時に他者を傷つけてしまう。ヒトラーとナチス、そしてユダヤ人。バーンスタインの言葉は、芸術の無限の可能性とともに、永遠の怨嗟を伴いながら現代に問いかけを残している。
それでも、この地でワーグナーを聴いてみたかった。短期間しか滞在しない異邦人に、なにがわかるかなんて愚かな問いだ。そこに立って考えることでしか、感じることのできないものがある。
ヒトラーを虜にしたワーグナーの創り出す音楽は、当時のアムステルダムのユダヤ人にとって、どんな思いを抱かせていたのだろうか。真贋はともかく『アンネの日記』に描かれた世界は、オランダ史上最悪の戦犯と呼ばれたリプ・ハーゲンの蛮行ひとつひとつに裏付けられている。
アンネ・フランクの家は観光地化され、多くの人で混雑していた。その隣、西教会の脇を流れる川には、ナチスによって迫害された同性愛者たちを追悼するモニュメントがあった。ここにも多くの花が添えられていた。
ナチスの侵攻によって、あらゆるものを奪われたユダヤ人は、絶望の果てに、この道を歩き、橋の上にたたずみ、揺れる川の水面を見つめながら、なにを思ったのだろうか。
漠然とした思索は、当事者にとって最悪のシナリオになりかねない。原爆を投下された広島の人々が、水を求めて川に入っていったその光景を、異邦人が感傷のもとに話すことほど安っぽいものはない。
長い時間をかけて、この胸の内を整理するという贅沢にゆだねよう。
歌劇″さまよえるオランダ人〟の物語は、『古事記』に登場する、弟橘媛命が荒れ狂う海に身を投じて海神の怒りを鎮め、日本武尊の航海の安全を祈ったという伝承と似ている。それを歌劇にした黛敏郎は、さしずめ日本のワーグナーか。
年齢が感性を鈍磨させるということを、この頃身に沁みて感じる時があるが、たかだか十数時間の移動で、いままで聴いてきた音楽がこんなにも違って聞こえてくることに驚き、そして感動した。
そうそう、先日、北海道で食べた″山わさびカップラーメン〟の美味さが、東京に帰って食べたときに絶望へと変わったことも、卑近な例として記しておかなければなるまい。乾いた空気のなかで味わうそれと、湿気のなかで味わうそれは、ヨーロッパと日本で聴くクラッシック音楽の違いと同義だった。
芸術運動と思想運動
もう長い間、長時間のフライトを経験していなかった。バンコク経由でビルマに飛んでも約八時間。インドネシアやフィリピンも大差はない。中国などは、三〜四時間で目的地に着いてしまう。
思い返せば、約三十年前にガウディの建築を見るためにスペインを訪れて以来のヨーロッパである。あの時は、十五〜六時間くらいのフライトだったろうか。まだ機内でタバコが吸えた頃だ。
「ガウディの建築は、抽象が複合し、かつ、対立している気がしてあまり好きではない」
当時はこんな言葉で話す青臭い青年だった。これは一方的な理解による無防備な批判になるだろう。
まだ、建築家になりたいなどと、漠然とした夢を持っていた純真な青年は、次はフランスでル・コルビジェの作品を、そしてドイツでミース・ファンデルローエの作品を見ようなどと希望に満ちあふれていた。鉄とコンクリートとガラスで構成される両氏の建築のその図面やスケッチを模写していた。
このモダニズム建築の潮流を牽引したのがオランダの″デ・ステイル・ムーブメント〟であり、その影響を大きく受けて進化していったのがドイツの″バウハウス・デッサウ〟である。
ナチスは当初、このバウハウスの教育と作品をドイツ的潮流と位置づけてプロパガンダを行おうとした。見方によっては、質実剛健ともとれるデザインは、ドイツ古典主義という帝国の意思を示す好材料になったのかも知れない。しかし、バウハウスの校長であったミースは「総合芸術学校のあるべき姿に反する」としてこれを拒絶すると、やがて非ドイツ的、敵性、ボルシェヴィズム的と攻撃され、廃校を余儀なくされていく。
日本人留学生であった山脇巌が、その弾圧をコラージュしたポスターを発表するのは、日独伊三国同盟が締結される八年前(一九三二年)のことだった。
私が、建築と美術を学ぼうと、高い志? を抱いて通った文化学院は″日本のバウハウス〟だと誇りに思っている。残念ながら三年間も通いながら卒業は出来ていないが…。
その建学の理念を学校紹介から引用する。「西村伊作、与謝野晶子、与謝野鉄幹、石井柏亭らによってなされ、「国の学校令によらない自由で独創的な学校」という新しい教育を掲げ、「小さくても善いものを」「感性豊かな人間を育てる」などを狙いとした教育が展開された。しかし、この教育が後の大戦に入り、戦時体制となった国により、弾圧を受けることになった。
日本で初めての男女平等教育を実施、共学を実現した。日本文化のみならず、キリスト教精神や西洋文化的教育が盛んに行われ、教員に多くの西洋人を招いた。創立当時から制服はなく、和服より洋服を推奨し、当時では珍しく、生徒のほとんどが洋服を着ていた。その頃から文化学院はオシャレの代名詞として知られていた。
創立当時から現在に至るまで、多くの日本を代表する著名人、文化人、芸術家、西洋人たちによって教育が行われ、さらに多くの著名人、文化人、芸術家を輩出している。日本の現代史、文化史においても重要な位置づけであり、戦時中や学生運動、神田カルチェ・ラタン闘争真っただ中であっても、常に自由思想の先頭にあった学校である。
広辞苑に載っている数少ない学校の一つでもある。かつて教員はじめ、在校生、卒業生たちからはユートピアと評され、学生の憧れの的だったという。「自由」、「知性」、「芸術」の象徴であった」
こんな校風に浸りきった三年間が、私の情操に多大な影響を及ぼしている。それは、少年期とはまったく違った価値観であったから。
「ただ理念のみが、これほども広く伝播するだけの力を持っているのである」
と、ミースはバウハウスの建学を語ったが、文化学院もまたその言葉を彷彿とさせる熱を持っていた。御託を並べずとも、芸術の理念は根を深く張り、伝播するのである。
アムステルダムで滞在したホテルの向かいの建物は、ミースやコルビジェのデザインを思わせる建物だった。サインには、モンドリアンの色使いがなされている。窓外を見るたびに迫りくる感慨を独り占めした。
そして、バウハウスに多大な影響を与えた″デ・ステイル・ムーブメント〟の牽引者であるヘリット・リートフェルトの建築を今回の旅で見ることができる。
リートフェルトは、ユトレヒト生まれ。一九一八年に、ピエト・モンドリアンらとともに″デ・ステイル・ムーブメント〟を起こした人物だ。今回、どうしても見ておきたかったのが、その″デ・ステイル〟の理念が集約されたといわれるシュローダー邸である。
アムステルダムから列車で三十分ほどでユトレヒトに着く。そこは、アムステルダムの歴史的な部分を集約したかのような落ち着いた街並みだった。
建物の竣工は一九二四年(大正十三年)である。日本では、阪神甲子園球場、日本橋高島屋が竣工した年だ。いずれも、西洋建築様式を取り入れた素晴らしい建物であるが、そんな時代に、モダニズムの思想は、直線の交差と、構成される面の深浅だけで造形を完成させたのである。

思った以上に小さいというのが第一印象であった。それでも、その容姿は私のなかで段々大きくなっていった。前日までに予約をすれば内部をガイドしてもらえることを知るのは現地でのこと。窓々から内部をつぶさにのぞき見るオッサンは、それが有名建築でなければ、ただの変態にしか写らなかっただろう。
精神は詳細に宿る。色以外の一切の装飾をを排した機能美に、ただただうっとりとしてしまう。ユネスコの世界遺産認定の是非はいろいろあるが、芸術におけるそれは、時代を超えて守られるという点で、是とするべきであろう。
一方では、ナチスとバウハウスに象徴される思想と芸術の断絶を考えていた。
時として、偏狭な理念、心情に埋没してしまう怠惰を乗り越えるために、芸術的情熱をいかに思想運動に昇華するか。これは綺麗ごとではない命題となる。その思索のさきには、きっとカッコいい右翼が誕生するはずである。

異国で祖国を思う
東京での行動は、多くの制約を受ける。
顔と名前を晒して、いまだ時に偏狭で青臭い理念を説く以上いたしかたないことだとも思うし、それ自体が自意識過剰であるとも思うのだが、狭い行動範囲はいつも誰かしらの目を気にしなければならない。
その点、ここでは誰も私を知らない。しかしそれでも、日本人であることに変わりない。
インドネシアを訪れたとき、通訳を頼んだ青年の一言がいまも忘れられずにいる。
「オランダ人は、私たちからすべてのものを奪った。日本人はそれを取り戻し、私たちに勇気を与えてくれた」
大東亜戦争の矛をおさめて以降も、帝国軍人はインドネシア解放のために、その地で支配者であるオランダと戦い、ついに植民地からの解放を実現する。
「日本の軍人さんは、私たちの祖先と一緒に、インドネシア国歌を歌いながら戦闘に出て行った」
と彼は言った。日本人であることを誇らしく思った瞬間だった。彼らは世代を超えて、彼の地で命を落とした日本兵の墓守を続けてくれている。
では、一方のオランダ人からすれば、その感情はいかなるもになるのか。それは「オランダ領に侵攻した日本」ということになるのだろう。しかも「多くのユダヤ人を排斥したドイツと同盟国である」と。
しかし、なぜオランダはインドネシアを支配していたのか。残念ながらいまを生きる多くの日本人にその発想はなくなってしまっている。その上で、オランダ領侵攻などと言われてしまえば、おのずから日本が悪かったという思考に陥ってしまう。
昭和四十六年、天皇陛下がオランダに行幸された際、その御車に瓶とともに、天皇批判のビラが投げつけられた。ハーグでのことである。
【御製】
戦にいたでをうけし諸人のうらむをおもひ深くつつしむ
是非のすべてのしろしめされながらも、このことを詠まれた御製に、堪え難きを堪え、忍び難きを忍ぶ陛下の大御心をみる。
ハーグの美術館で、モンドリアンの作品に酔いしれながらも、なぜか国際司法裁判所のたたずまいに触れたとき、頭の片隅にあったこのことが、現実として目の前に押し寄せてきた。
厳然たる事実として、大東亜戦争に敗れたのである。その詔を謹むとき、果たして現在の国際社会の一員である日本の位置づけに、私はどう関わり、なにをなすのか。
あゝ、教養が足りない。言葉が足りない。異国で祖国を思う、贅沢な時間は、苦悶のときでもあった。今夜もまた、うなされるのだろう。巨人族の国に迷い込んだアジアのオッサンの冒険物語なんて夢だったら、楽しそうだ! 荘厳な国立図書館に迷い込む夢だったらもっといい。