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サイパン紀行①

  • 執筆者の写真: 横山孝平
    横山孝平
  • 8月8日
  • 読了時間: 9分

ー戦後八十年の節目に、かつての日本統治領で国の命を思うー

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  サイパンは赤い花に彩られた楽園であり、地獄であった

                               (『楽園の犬』岩井圭也)


 はじめに


 北マリアナ諸島・サイパンは風光明媚な島である。珊瑚礁をたたえる海は青く澄み、ふりそそぐ日輪の光がその濃淡を際立たせている。山側に目を転じれば、深い緑のなかに、白い五花弁のプルメリアが甘い香りを匂いたたせ、タヒチアンチェリーは通年、赤い花を咲かせている。のちに日本人が、その咲き誇る様を「桜」に見立てた火炎樹(フレームツリー)は、六月から七月にかけて真赤な花を咲かせ、そしていさぎよく散る。


 ドルを使用し、数日後(一月二十日)に新大統領就任式を控えた土産物屋には、ドナルド・トランプの顔がプリントされたマグカップや首振り人形が盛大に売られていた。自治領とはいえ、ここがアメリカであることを実感する。観光の島ゆえ、景気に左右されることも多いのだろうが、島の人たちの顔は、一様におだやかである。

 一方で、島嶼部の地政学的宿命は、これまでに苛酷な支配と戦争に翻弄される歴史が紡がれることを余儀なくされてきた。同様に、島が日本の命運を左右することになった歴史を持つ私たちにとって、サイパンを訪れるということの意味は、決して軽いものではない。


 かつての統治領は近くて遠い島だった


 日系の航空会社がサイパンへの直行便を就航させていた時代には、日本語で生活できるアメリカともいわれ、日本人に大人気の島だったサイパン。しかし、直行便運航からの撤退を契機に、平成三十年には米国・デルタ航空までが就航を取りやめ、日本人にとっては近くて遠い島になった。一時期、スカイマークが直行便を就航(令和元年)させたが、翌年には、新型ウィルス感染症の問題などを理由にこれも撤退を余儀なくされている。

 

 今回は、令和四年九月に新規就航した米国・ユナイテッド航空の直行便(成田発)を利用しての旅となった。


 現在、サイパンへは米国ビザ。米国ビザ免除プログラム「ESTA」。またはグアム|北マリアナ諸島連邦電子渡航認証「Guam-CNMI ETA」のいずれかが必要となる。「ESTA」は就労などとは別になるが、正式な米国本土への入国ビザである。一方の「Guam-CNMI ETA」は、グアム・サイパンにのみに入国するための簡易的なビザとなる。

 余談になるが、私たちの界隈でもっぱら囁かれている噂がある。それは「オレたち、アメリカには入れないよ!」というものだ。まことしやかに流布されるこの話に、私自身この旅が決まって以来、正直なところすこし萎縮していた。


「イラク支持だったでしょ?」「何度も中国に行ってるでしょ?」「反米でしょう?」「入れないよ!」


 サイパンに行く予定を話すと、知人からはことごとくこんなことをいわれた。しかし、折角の機会である、ダメもとで、アメリカ大使館のサイトからビザを申請する。多少時間がかかったような気がするが、結果は予想に反して「Have a nice trip」と一年間有効のビザがおりた。驚いた。いやまだ、サイパンに入るときに、なにかされるかもしれない…。


 余談つづきに、サイパン入国までドキドキしつづけた、右翼の醜態を記録しておこう。

 成田空港駐車場に車を預け、ユナイテッド航空カウンターで搭乗手続きをする。パスポートとビザ、宿泊先と預け入れ荷物などのチェックが済めば、バックパックひとつの身軽になる。出国は、パスポートを機械にかざし、顔認証をすることで難なくパスし、ボーディングゲートへ向かう。残るハードルは、サイパンでの入国審査だけになった。

 ところが、搭乗にあたりゲートでチケットをかざすと「ちょっとこちらへ」と私だけ別のカウンターに誘導された。するとイカつい外国人男性から「ラップトップを出せ! Ipadもだ」と命令される。やはりなにかに登録されている事情でもあるのか? あの噂は本当なのか? クラウドには見られたくない文書も多く保存しているし…。


 正直なところ腹立たしかったが、個人の旅でもないので素直に従うと、ヤツはパソコンに紙片を当てはじめ、それを機械にかけた。数分待つとクリアのサインが出る。日本人スタッフであれば、ここで「お手数をおかけしました」くらいの言葉もありそうだが、その男は「GO」と告げるのみだった。「なんで私だ」と問うと、ただ「ランダム」というだけだった。いらぬ緊張を強いられた。これではサイパンへの入国審査もどうなることやら。機内でもなかなかリラックスできなかった。三浦和義さんのことなども少し頭をよぎった。


 帰国後に調べてみると、これは「火薬」等を検知するシステムだったようだ。まったく無礼極まりない。「無差別爆弾テロと右翼のテロは違うぞ」と、こんどはきちんと英語で説明できるようになろうと誓った。


 三時間半ほどのフライトでサイパン国際空港に着陸する。さほど大きな飛行機でもなかったので、入国審査の列もたいしたことはない。その列には、日本人よりも韓国人の方が多い印象だ。程なくして私の審査の番となった。

「何日滞在する?」「宿泊先は?」質問はこれのみ。その後、十指の指紋のスキャンが終わると「OK、GO」といわれた。搭乗の時と同様に無愛想な「GO」ではあったが、私は小躍りする心持ちで預け入れ荷物を取りに行った。


 やれやれ、かつて日本だったサイパンを日本の愛国者が訪れるのにこんな緊張を強いられるとは…。

 日本より一時間、時が進む。夜遅い時間であったからか、さほど暑さも感じずに、ホテルへ向かう車に乗車した。


 サイパン島の発見から日本の信託統治まで


 サイパンは、大航海時代(一五二一年・日本では戦国時代・足利室町幕府)、スペインの探検家マゼラン(ポルトガル)が島を発見して以来、スペインの統治(一五六五〜)がはじまる。その後、スペインとアメリカの戦争において、結果的にアメリカが勝利し、スペインは、それまで獲得した様々な占領地を放棄せざるを得なくなった。サイパンもそのひとつで、その権利は(一八九八〜)ドイツに売却されることになった。


 このスペインとアメリカの戦後の条約で、アメリカはフィリピンやグアム島を手に入れることになったが、サイパンの権利には介入していない。この時はまだ、アメリカもサイパンを重要視していなかったのだろう。 


 ドイツは、第一次大戦の敗戦(一九一四)までサイパンを支配下におくこととなる。サイパンは、スペイン、そしてドイツによって、約三百年支配され、先住のチャモロ人、カロリニア人は奴隷化を余儀なくされた。彼らの文化と言葉がないがしろにされた時代である。

 ドイツが敗戦して以降、大正三年からは、パリの講和条約に基づいて、日英同盟のもとに連合国側でドイツを破った日本が、サイパン島はじめマリアナ諸島の統治を委任されることになる。


 このことによって、日本は政府機関として、南洋庁サイパン(彩帆)支庁を設置し、現在も最大の町であるガラパンは、漢字で柄帆と表記された。

 当時、北海道の上の日本領には樺太庁があった。作家・三島由紀夫さんの祖父・平岡定太郎が第三代の長官だった。


 いま世界は、西側(自由主義陣営)と東側(社会主義陣営)という分断の様相を呈しているが、わたしはこの樺太から赤道までの縦の軸線上に西側でも東側でもない日本、そして文明があるのではないかと夢想する。とすれば、サイパンはその縦軸の中間の地点に存する。


 サイパンは、奴隷化された支配から、日本の信託統治によって、豊かさを増すようになった。その統治機構は、スペインやドイツの占領支配と違い、委任を承けた統治者として、軽便鉄道などインフラを整備し、先住島民とともに、日本からの移住者、おもに沖縄(六割)から移住された人々や、朝鮮や台湾から入った人たちとともに、サトウキビの栽培や砂糖製品精製・輸出やカツオ漁、水産加工などの産業を発展さた。これは厳然たる事実である。


 それでも、滞在中に訪れたアメリカン・メモリアルパークでふと、以前ある学者と対談をしていたときに、云われたことを思い出した。

「日本の統治の善の面だけを見ていてはダメだ。現地の人々にとっては、ただ統治者がAからBに変わったに過ぎないだけなのだ。善政も以降のアメリカとの戦いでは、辛酸をなめる生活を彼らに強いたことも事実なんだ」


 アメリカン・メモリアルパークには、サイパン戦で戦死した米兵の名が刻まれた碑が、米国国旗に彩られ建っている。そしてその近くには、戦争で亡くなられた現地のチャモロ人、カロリニア人の名前を刻んだ慰霊碑もひっそりと建っていた。


 はたして信託統治国、統治者は、なにを為し、どのような責任を負うべきだったのだろうか。「関係する人々の命の問題を真剣に考えなければならない」これは思想のみならず、企業人としての責務でもあるのだと思う。


 同時に、大東亜戦争ではこのサイパン島を絶対に死守しなければならない。そうしなければ、日本が危うくなるという、重要な位置・絶対防空圏であった。ゆえに、軍民がともに懸命に戦った。


 歴史に「もし」という言葉が、禁物であることは十分承知している。しかしながら、絶対防空圏とされたこの地が、もっと早い段階から徹底的に要塞化され、守り続けられていれば、大東亜戦争の戦史も違ったものになったのではないか。そんなことをパーク内を歩きながら考えていた。


 併設される資料館では、サイパン島の戦いをアメリカ側から記録した映像をみた。いや、受付で「日本語字幕のものがあるからみていけ」と、みせられた。

 勝者の戦史が正史になる。それをまざまざと見せつけられた気がした。そして、やるせない気持ちにさせられた。なにゆえに彼らは、サイパン・テニアンから飛び立った戦略爆撃機が行った、日本本土の民間人への空爆を、原爆投下という大虐殺を正当化できるのだろうか。


「理解することと、許すことは違う」


 これはユダヤ人哲学者のハンナ・アーレントが、ナチス・アイヒマンの裁判傍聴にあたり、ナチの行動原理を熟考した際の言葉である。アーレントはユダヤ人でありながら、ナチスの行った残虐非道の行為の意味を理解しようとした。もちろん、ユダヤ人への虐殺を決して許したわけではない。

 理解しなければ断罪もできない。これは哲学者の使命だという。教え子や親族、同業者からの反発は想像を絶するものであった。しかし、考えなければ未来を語る資格も無いと彼女は思索をつづけるのである。


 ソクラテスやプラトン以来、思考は自分自身との静かな対話である。しかしこの時、人間であることを拒否したアイヒマンは、人間の大切な質、思考することを拒否した。彼は裁判において「ただ命令に従ったたけだ。責任はない」と弁論しつづけたのだ。その結果、モラルまで判断不能となった。思考しない平凡な人間ほど、残虐行為に走るのだ。獣のふるまいと言いかえても良いだろう。


 アーレントは「思考がもたらすのは、知識ではなく、善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力である。考えることで人間は強くなる」と考えるのである。

 ではなぜ、米国は原爆を投下したのか。なぜそれを国家的に正しかったと言い切れるのか。「日本人と接するときは、それを獣として扱う」とトルーマン大統領は云ったといわれる。しかし、この不都合な言葉を当事者が記録することはないだろう。まだオッペンハイマーの苦悩の方が人間的であるとも思った。


 しかし私はまだまだ未熟なのだろう。この場所で、理解する、理解しようという思惟にはいたらなかった。


 資料館を出ると、照りつける日差しに肌を焼かれる。ヤツらには広島・長崎の炎熱地獄を理解などできようもないと強く思った。

 プルメリアの白い花は、光を帯びて輝いて見えた。


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