サイパン紀行②
- 横山孝平
- 8月8日
- 読了時間: 8分
ー戦後八十年の節目に、かつての日本統治領で国の命を思うー

《昭和十九年六月二十四日 土曜日》
午後四時六分、御学問所において参謀総長東条英機・軍令部総
長嶋田繁太郎に謁を賜い、中部太平洋方面を中心とする爾後の
作戦指導・サイパン島奪回企図の放棄について上奏を受けられる。
(『昭和天皇実録』より抜粋)
大東亜戦争開戦 シンガポールからサイパン陥落
ドキドキのサイパン入国から一夜が明け、滞在するホテルの部屋のカーテンを開けた。目の前に広がる海が綺麗だ。白波ひとつない青のグラデーションがひろがっている。かつてこの海にアメリカの艦船が押し寄せてきたことに思いを馳せることは難しい。いや、情操が鈍磨しているだけなのか。
いまはただ、アメリカ第三海上事前集積船隊(MPSRON-3)が三隻沖合に停泊しているだけである。三十日間の戦闘を行なえるだけの充分な機材、補給品、弾薬を積載しているこれらの船は、アジア太平洋地域での紛争勃発の際、すぐ出動し、海兵隊の後方で作戦を支援するという。すなわち、この船が停泊しているとき、海域は平時であるのだ。これからの滞在中、いまはこの平和な海を毎日眺めることができる。本当にありがたいことだ。
今日は、参加者全員で戦跡をめぐるツアーが予定されている。早々に朝食を終え、フロントに集合した。ガイドをしてくれるのは、マリアナ政府公認資格者の高橋香織さん。字こそ違うが、髙橋家に嫁いだ私の娘と同姓同名である。ただそれだけだが。
沖縄に滞在していた時にも経験したことがあるが、この日は午後から北部戦跡で不発弾の処理作業があるため、早い時間にこの地域を出なければならないという。いまだ戦争の爪痕が、この島のいたるところにある。大型のワゴン車に乗り込み北部を目指した。
サイパン島の日本統治時代、日本軍は、中部太平洋艦隊を中心に約四万三千人の兵を駐留させている。司令長官は海軍・南雲忠一中将だった。南雲中将が、昭和十九年七月六日、サイパン陥落の責任をとり自決されたことは後述する。
戦争に良い戦争も悪い戦争もないことを、私たちはこれまでの歴史から学んできた。しかし戦後の、ことに日本の教育、マスコミの風潮は、この大東亜戦争をアメリカ側の呼称である「太平洋戦争」といいかえ、これを日本の一方的な「悪」として論じつづけている。だがこれは一面的なものである。欧米の拡大主義、植民地支配に対して、アジアの国として唯一異を唱え、自存自衛のために立ち上がったのが日本であったことも事実なのである。少なくともこれらは、両論で知らしめなければならないと強く思う。
ここに開戦までの詳細を記する誌巾はないが、のちのサイパンの戦いにいたる、開戦当初の南洋での流れを確認しておきたい。
大東亜戦争の開戦は、昭和十六年十二月八日の真珠湾攻撃が有名だが、同時に、アメリカがスペインとの戦争で獲得したグアム、そして、イギリスが支配するマレーシアへの攻撃もまた、開戦時のものである。マレーシア・コタバルへの上陸作戦は、真珠湾攻撃の二時間前だった。この時の暗号は「ヒノデハヤマガタ」(開戦という日の出は八日。八を山と擬した)(この詳細は『國の子評論』15号に、弊社・池田龍一が「大東亜戦争もうひとつの開戦の地を歩く」としてレポートをまとめているので、ご一読いただければと思う)
アメリカの真珠湾、そしてイギリス領のマレーシアからシンガポールへの進軍。ゆえに 昭和天皇の開戦の詔では「米国および英国に対し戦いを宣す」と仰せられることになる。
マレーシア・コタバルから第十八師団歩兵第二十三旅団(侘美浩少将)が進軍して、翌年二月には、シンガポールをイギリスの支配から解放すると、フィリピンを含め南洋は、日本が絶大な力を持つところとなった。アメリカ・イギリスの植民地支配からの解放である。
これ以降の日本軍の戦略、進め方に対して、私が分析を加えるほどの知識はないが、少なくとも圧倒的な物量と軍事力によって、じわじわと連合国に押し返され、ミッドウェーなどマリアナ沖海戦にて敗戦してからの戦況は、後転の一途をたどる。
アメリカは、日本をたおすために、スペインとの戦争の戦果としては目もくれなかったサイパンをはじめとする、北マリアナ諸島に本格的な攻撃を仕掛けはじめる。
サイパンへの米軍の上陸は昭和十九年六月五日。以降、一ヶ月に及ぶサイパン島の戦いは、日本人だけでも、軍民あわせて約五万五千人の戦没者を出すことになった。
のちの沖縄戦もまた、県民の四人に一人が戦死されるという熾烈なもので、軍の命令こそなかったとはいえ、住民の集団自決という不幸な現実が起きている。そしてこのサイパンの戦いも同様に苛烈であったことを決して忘れてはならない。
サイパン島北端のバンザイクリフに立つ。ガイドさんは、言葉を選びながら慎重に、私たちにこの地で起きたことを話してくれている。
激しい艦砲射撃や爆撃あるいは機銃掃射によって多くの人が亡くなり、このバンザイクリフやスーサイドクリフから多くの民間の人びとが身を投じて自ら命を絶たれた。
ガイドさんが指さすバンザイクリフの突端に釣り人が見えた。崖の高さに比べれば人間も豆粒程度の大きさである。ここから身を投じた女性たちの、恐怖の戦慄はいかばかりであったか。
平成十七年、天皇皇后両陛下が立たれた同じ場所で黙祷した。
島の突端には多くの慰霊碑が建立されている。関西から慰霊に訪れていた真言宗系の団体が慰霊法要を行っていた。この夜には、ホテル前のビーチで行われた彼らの慰霊行事に、わたしたちも参加をさせていただいた。毎年の行事であるという。蝋燭を灯し、盂蘭盆の徹夜踊りで有名な郡上踊りを踊る。参加者は浴衣の袖に依られた英霊を日本にお連れするという。きっと多くの英霊が、ここに駆けよって来ていただろう。
バンザイクリフでは、これら日本の慰霊碑に対し、心ない外国人による、いたずら、損壊も多く見られている。民度の低さを露呈するだけの行為に気付くこともできないのだろうか。
山側に目を転ずると、スーサイドクリフがそびえている。この崖からも、多くの命が散っている。そのふもとにある、中部太平洋戦没者の碑(昭和四十九年三月二十五日竣工)とラストコマンドポストに移動する。
中部太平洋戦没者の碑は建築家・谷口吉郎氏のデザインで、ほかにフィリピン・ラグナ州カリラヤにある比島戦没者の碑も手がけられている。
平成二十八年一月、天皇皇后両陛下は、フィリピンとの国交正常化六十年を期して行幸啓あそばされた際、この比島戦没者の碑に献花、拝礼されている。この時、私は現地で御奉迎をさせていただいた。前夜から降り続く雨に、マニラからヘリコプターで御移動なさる陛下の御予定が変更されるのではないかと危惧されたが、御到着直前にその激しい雨はピタリと止んだ。重い曇はまだ垂れ込めていた。
私は慰霊碑から離れた場所で待機をしていたので、警備の者が「陛下が献花されます」と告げてくれると同時に黙祷をした。すると眼裏が瞬間に赤く染まった。ふと目を開けると雲が晴れ、光が降り注いでいるのだ。
そこに私は 天皇という神の御業を見た。英霊の呼応も見た。
中部太平洋戦没者の碑に詣でたとき、あの時の感動とその光景がありありと蘇ってきた。
平成十七年のサイパン行幸啓の際、陛下に当時の戦闘の状況を説明された旧軍兵士・大池清一さんは「陛下の慰霊は、兵士への一番の供養だ」と感激したことを取材者に明かしている。
天皇の思し召しに、ただただひれ伏す思いである。
慰霊碑がフィリピンのものと違っていたのは、碑の裏にある無数の地蔵だろう。こちらもまた政府建立慰霊碑とされている。慰霊碑の横には大きな火炎樹が枝振りを広げていた。満開の様を見てみたい。ガイドさんが用意してくれた香を皆で手向けた。
背後の切り立った崖がスーサイドクリフ。その高さに圧倒される。岩肌には、艦砲射撃の砲弾のあとが生々しく残っていた。
日本人が南洋桜とよんだ火炎樹が満開の昭和十九年六月二十五日、日本はサイパン島の放棄を決定した。
激しい戦闘の末、サイパン島は、昭和十九年七月九日に、アメリカに島を占領されてしまう。大東亜戦争の開戦から三年八ヶ月後のことだった。
昭和十九年七月六日、南雲中将は、
「明後七日、米鬼を索めて攻撃に前進し一人よく十人を斃し以って全員玉砕せんとす」「予は諸隊の奮戦敢闘を期待し、聖寿の万歳と皇国の繁栄を祈念しつつ諸士とともに玉砕す」
と総攻撃の命令を下す。自決か戦死か、南雲中将の最期についてはいまなお諸説があるようだ。
今回の旅行に際して行われた事前の勉強会で、サイパン島の戦いを映画化した『太平洋の奇跡』|フォックスと呼ばれた男|を渡航前に観るべき課題映画とした。サイパン戦の末期を描いたもので、大場栄さんという、実在の兵隊さんを、俳優の竹野内豊さんが演じている。
大場栄さんは、陸軍歩兵の衛生隊長としてサイパンの四十八師団に入隊。南雲中将の総攻撃、そして、陥落後も直属の上官の命令がなければ戦いをやめることはできないと、島中部のタポチョ山に籠もり、ゲリラ戦を果敢に戦った方である。アメリカ政府は、サイパンを奪取しながらも「なぜ四ヶ月以上も戦闘が続いているのだ」と理解に苦しんだという。この真相が、大場隊の戦いであったのだ。
その後、大場隊は陸軍・天羽馬八少将の命令をもって、武器をおいた。映画のなかでは、大場隊が民間人を思い、またともに戦う姿がうまく描かれていると思う。
サイパン陥落から四ヶ月後の十二月一日投降。降伏式において、大場さんがアメリカ軍代表者に軍刀を差し出す姿は、鮮やかな写真として、アメリカン・メモリアルパークの資料館に展示されていた。
不発弾処理の時間に間に合うように、北部戦跡をあとにして、私たちは島の中部タポチョ山に移動した。車が横転してしまうのではないかと思うような、道を移動し、途中から徒歩で頂上に移動する。曇の多い日であったが、ときおりその切れ間から島の全景をパノラマに見ることができた。
下に目をやると、そこには、大場栄さんがゲリラ戦を挑んだ深い森がひろがっていた。