サイパン紀行③
- 横山孝平
- 8月8日
- 読了時間: 9分
ー戦後八十年の節目に、かつての日本統治領で国の命を思うー

平成十七年 皇后陛下御歌
いまはとて島果ての崖踏みけりしをみなの足裏おもへばかなし
日本本土空爆と原爆投下
サイパンをはじめ、マリアナ諸島が連合国の手に落ちると、アメリカはサイパン・テニアンを基点に、日本本土への爆撃を開始する。
アメリカ最大の戦略爆撃機であるB29が爆弾を積んで飛べる距離は約六千㎞である。東京とサイパンの往復が約五千㎞であるから、アメリカからすれば、サイパンを獲得することによって、日本本土を攻撃して帰ってくることができる拠点を得たということになる。一方の日本にとっては、本土防衛のために絶対にまもるべきだとした「絶対防空圏」の喪失であった。
以降、サイパン、そして隣のテニアンから飛び立った戦略爆撃機B29は、昭和二十年三月十日の東京への大規模空爆をはじめ、日本の主要都市を空爆する。これを日本人自身が大空襲などといってしまっているが、これはアメリカによる、日本本土約四百カ所に及ぶ、民間人虐殺の空爆である。主要都市への攻撃とはいえ、それは軍事基地に限られたものでなければなならない。それ以外に対する爆撃は、明らかな戦争法規違反である。
アメリカの戦争法規違反による多くの爆撃によって、戦争に関係ない民間人が多く殺された。そしてその究極が、広島・長崎への原子爆弾投下である。
人類史上はじめて使用された原子核爆弾は、このサイパン島のとなり、テニアン島から、八月六日にはウラン型核爆弾を搭載したB29エノラゲイが、九日にはプルトニウム型の核爆弾を搭載した、同ボックスカーが飛び立った。
昨秋、北海道の北端を旅した際、稚内からオホーツク海沿いを車で走り、網走を訪れた。「博物館網走監獄」で知ったことなのだが、昭和十四年には、この網走刑務所の囚人らが、横浜刑務所で教育を受けたのちに、テニアンに渡りこの飛行場建設に従事したという歴史もあった。その飛行場の近くには、いまもこの原爆を一時的に保管した場所が、記念碑的に残されている。とても悔しい思いである。
昨年、アカデミー作品賞などを獲得した映画「オッペンハイマー」が公開された。大量殺戮の兵器を開発した科学者の栄光? と苦悩が描かれていた。そしてなぜ、二発の核爆弾を使用したのかについても触れられている。それは広島に落としたウラン型にくらべ、長崎で使用したプルトニウム型は小型で量産できる。ゆえに降伏しなければ何発でも投下するというものだった。ただ非常に憤りを抱いたのは、二種類の核を使ったもうひとつの側面、すなわち人体実験の真相が少しも描かれていなかったことだ。
戦後、この日本人大虐殺という戦争犯罪が、極東軍事裁判・東京裁判で裁かれていないこの一点をもって、この裁判もまた茶番劇であったことは明らかである。
主要都市に向けられた空爆、そして二発の原子爆弾投下という大虐殺を経て、日本はポツダム宣言を受諾し、八月十五日の 昭和天皇の終戦の詔勅によって、日本は戦いの戈をおさめた。
昭和天皇はこの詔書のなかでも、「敵はあらたに残虐なる爆弾を使用して、しきりに無辜を殺傷し」と、ある種の降伏文書でありながらも、無辜、民間人をしきりに殺傷しと表現され、米国のこの戦争法規違反を諫められている。
以降、サイパンはアメリカ軍の軍政を経て、国際連合の信託統治領「太平洋諸島信託統治領(施政権者:アメリカ合衆国)」となる。
戦跡巡拝の最後は、サイパンでの戦闘がはじまった直後に、アメリカ軍の上陸部隊と果敢に戦い、その一個大隊を恐怖の底に突き落とした黒木大隊玉砕の地を訪ねた。戦史に拠れば、
「黒木隊は、空爆と艦砲射撃の四日間をひたすら壕の中に身を潜め沈黙を守っていた。
アメリカ軍機が上空にいる間は、絶対に撃ってはならない。一発でも砲門を開けば、たちどころに発火点をアメリカ軍に知られてしまい、その結果は、全滅を意味するからである。
夕刻、勤務時間を終えるようにアメリカ軍機は、沖合いの空母に引き揚げていった。海岸のアメリカ軍は悠悠とテントを張り、口笛を吹きながら食事の準備にかかっていた。そして十八時ころ、黒木大隊の砲門が一斉に開き、アメリカ軍の上陸部隊を猛襲した。」
とある。
慰霊碑は、その黒木隊が最期に全員突撃をした場所に立っている。戦死された方々の名前が刻まれた碑が建ち、使用された十五センチ砲が残されていた。全員で香を手向けた。ガイドをしてくれた高橋さんは、ご夫婦で定期的にこの地の清掃奉仕をして下さっているという。
今回の戦跡慰霊巡拝がより良いものになったひとつに、ガイドが高橋さんであったことの意味は大きい。サイパン戦史を丹念にひもとき、勉強されている彼女は、私たちに言葉を選びながら丁寧に説明をしてくれた。あらためて感謝したい。
最後に、全員で彩帆香取神社に参拝し、戦跡巡拝を終えた。
慰霊と祈りの御製と御歌
残りの滞在は、多くの自由時間をいただいた。サイパンを舞台にした小説を読み、ビーチでのんびりした。参加者の御子息と真剣にキャッチボールもした。「みんな大好きABCストア」で買いものをし、円はここまで弱くなったのかと、イライラしながらバカ高い値段のハンバーガーを食べた。
帰国前日には、ひとり日本統治下の痕跡をさがし街を歩いた。基点は彩帆香取神社。香取神社には、統治下の地図が復元されていた。飲食店や雑貨店、沖縄の方々の名字がならぶ住宅地が表されている。手がかりとなるのは、現存するこの神社と横に立つ砂糖王・松江春次の銅像だ。像は戦火にさらされたことをものがたるように、弾痕のあとがはっきり残っていた。旧神社の社号標もまた、幾たびかの補修をされているようには見えるが、刻まれた文字はかすれ、灯籠とともに記録として保存されるのみである。現在はあらたな彩帆香取神社の立派な社号標が建立されている。
案内には、
「サイパンにおける神道の過去につながる絶え間ないきずな。サイパン神社は昭和六年(一九三一)に、日本人が香取山と名づけた小さな丘のふもとに建てられた。これは大正三年(一九一四)十月に香取山の頂上に創設された香取神社に取って代わってのものであった。大正五年(一九一六)に当初の香取神社は強力な台風によって破壊された。そこで香取山中腹の小さな天然の洞窟に遷座となった。昭和六年には、砂糖王松江春次がサイパンの急増する日本人人口に対応すべく大きな神社を建てたいと許可願いを提出した。許可がおり同年に新神社が完成し、彩帆神社という社号となった」
とある。
香取の社号のとおり、祭神は経津主神。武の神であり国家鎮護、海上守護の神である。正確な出典にあたることができていないが、これは当時、昭和天皇の御召艦であった戦艦香取のなかの神棚から経津主神を分祀したともいわれているようである。神社建立に盡力した砂糖王・松江春次の事績も興味深いが、これはまた機会があればふれたいと思う。
照りつける日差しは、街歩きを躊躇させるほどであったが、歩をすすめる。すぐ近くには、堅牢なコンクリートで建築されたであろう「刑務所」が、いまにも朽ちようとするその姿を残していた。あと残るものは、スペイン教会の鐘楼くらいだろうか。
旅をともにした小説『楽園の犬』(岩井圭也・角川春樹事務所)は、開戦前のサイパンで行われた帝国陸海軍の策謀、諜報がフィクションとして興味深く描かれていた。そのなかに、海軍軍人と役人である密偵が会食をするシーンが登場する。場所は「よか楼」という料亭だった。そしてその名は、神社にあった地図にもはっきりと記されていた。きっと作者は、丹念に取材をされたのだろう。現在の地図と照らし合わせて、その「よか楼」のあったであろう場所に立つ。そこには現在の住宅が建ち並んでいるだけだった。当たり前のことだ。激戦の地に、木造であったその建物が残るはずもない。戦争でなにもかもなくなってしまったんだんだと実感させられる。
大東亜戦争終戦後、昭和天皇は、焼け野原となり、なにもなくなってしまった日本全国を行幸・巡行され、国民を励ましくださった。
念願であった沖縄への行幸は、御不例によってかなわなかったが、昭和の御代には 皇太子として、また平成の御代には、天皇として、昭和天皇のお気持ちのままに、あらゆる所に慰霊の行幸をされてこられた。平成の三十年間に 天皇陛下が行幸された距離は、地球約十五周半に及ぶという。
そのひとつとして、平成一七年六月に 天皇皇后両陛下がサイパンに行幸啓あそばされたのである。大東亜戦争終結から六十周年にあたる年だった。
通常、天皇の行幸は、行き先の国からの招待を受けてということが主であるが、このサイパン行幸は外国からの招きということではなく、はじめて 天皇陛下御自身が希望された、純粋な慰霊の旅であった。
出発行事での 天皇陛下の御言葉
「この度、海外の地において、改めて、先の大戦によって命を失ったすべての人々を追悼し、遺族の歩んできた苦難の道をしのび、世界の平和を祈りたいと思います。私ども皆が、今日の我が国が、このような多くの人々の犠牲の上に築かれていることを、これからも常に心して歩んでいきたいものと思います」
そしてこの行幸啓を歌にされている。
平成十七年 御製(天皇陛下の和歌)
あまたなる命の失せし崖の下海深くして青く澄みたり
たくさんの命が断たれたバンザイクリフの崖の下。その命の上
に、いま平和な海は青く澄んでいる。
今回の戦跡慰霊で、私たちは陛下と同じ場所にたたせていただ
き、そして青く澄んだ海を見た。陛下の御製を拝し、黙祷させて
いただくことができたこと感謝にたえない。
サイパンに戦ひし人その様を浜辺に伏して我らに語りき
さきに、兵士として米軍の艦砲射撃を耐えた大池清一さんが、
当時の状況を 天皇陛下に奉答されたことにふれたが、その感慨
をこのようにお詠みくださっている。
平成十七年 御歌(皇后陛下の和歌)
いまはとて島果ての崖踏みけりしをみなの足裏思へばかなし
いまから八十年前の現実として、日本人女性が、日本女性の尊厳を守るために、またご自身の貞操をまもるために、(いまはとて)いまはこれまでと、ゴツゴツした岩の上を裸足で進んで、その岩をみずから踏み蹴って、はるか崖下の海にとびこんで亡くなられた。その女性たちの、白い足裏を思うとかなしいと、皇后陛下はお詠みくださっている。
最後の部分、思えば、と漢字ではなく仮名で表されている。これを悲劇の悲という字をあてて「かなしい」とよむこともできるが、大和言葉では恋愛の愛という字をあてて「いとしい」ともよませる。これは、万葉集のなかでも多くつかわれるものである。
現代ではいとしいというよみになるが、この御歌にふれたとき私は、母親がケガをした子供の足を、愛おしみ、さすってあげている情景を思い浮かべた。国の母ともいわれる 皇后陛下の慈しみの心に、涙が溢れた。
戦後は、国民主権などいう言葉のもとに、日本が 天皇国であるということを、国民自身が忘れてしまっている現状がある。しかし、この御製、御歌に象徴されるように、天皇は変わらずに国民とともにあることを仰せ下さっている。サイパンへ慰霊のためだけに行幸され、その感慨を歌に残されているのは、そのあかしなのだ。
いまある私の命は、神代からながく積み重ねられてきた歴史と、次世代につながれる永遠の日本の未来、その一部にあることを自覚しよう。是であれ、非であれ、過去の喪失は、すなわち未来の喪失に繋がってしまう。サイパンの水平線に沈む美しい夕日の、その一瞬、一度限りの美しさに酔いながらも、この夕日が見つめてきた歴史のまえに、身を正しながら永遠の国の命を考えた。